城北大空襲被災証言集より

根津山にまつわる空襲被災体験


これまで追悼会が発行した3冊の空襲被災証言集の中から、この追悼会の名前にも入っている "根津山" にまつわる空襲の被災体験を以下にご紹介します。(被災証言集は、製作・印刷発行費に相応する費用のご寄付をいただき配布しています)

 

<10周年記念文集>2006/4/13 発行(被災証言集第1集) 

*B5版・本文モノクロ・80ページ *配布終了

「火の海になった根津山」廣瀬あきら

「母のもとには戻れなかった」田中久子(2008年5月のお手紙より)

「空襲の根津山の一夜」横谷イセ子

「根津山惨歌」中村清松

「一枚のセルの着物」拔井光子

 

<被災証言集第2集>2014/3/25 発行

B5版・本文モノクロ・114ページ・被災体験者証言地域図付き(ご寄付1000円をお願いしています)

「根津山に逃げた」田中不二

「戦災に遭遇して不二」神戸美枝

「私と戦争(戦災の日のこと)」矢部喜美代

「焼け出され始末記」岡田和道

「空襲下を生き抜いて」矢澤としゑ

 

<被災証言集第3集>2018/3/25 発行

*B5版・本文モノクロ・132ページ・被災体験者証言地域図付き(ご寄付1500円をお願いしています)

「根津山へ逃げた」峰岸郁子

「本立寺の脇を通り根津山 に逃げた」越 敬一 

「四月一三日に焼け残った我が家が...」外口志づ

 


<10周年記念文集>より


火の海になった根津山

 廣瀬あきら(豊島区南池袋在住)

 

 昭和二十年三月九日夜半、空襲警報が鳴り暫らくして日出町方面(現サンシャイン方面)で火の手があがる。空には照明弾が昼間のように明るく光る。焼夷弾がバラバラ落ち一面が火の海と化し、おそろしい程に燃える。

 我々の地区に近づくのではないかと、母妹弟等と近所の方々と必要な荷物をまとめ、いつでも逃げられる準備をする。駅前通りが広かったので難をまぬがれた。

 あとで聞いた話で、途中で雨が降ってきたと喜んでいたらガソリンを撒き散らしていたとの事でした。家族もこわくなり、父と自分が残り、他の家族は母の実家の山梨県に疎開をした。あとに残った父と自分は町内会の防火訓練に参加した。

 四月十三日夜、再び警戒警報が鳴る。急いで支度をして電気を消し外にでる。すでにB29が上空から焼夷弾を落としていた。都電雑司ヶ谷停留所から池袋寄り二十メートルの所から火の手があがる。隣の親子と一緒にノコギリや金槌ちを持ち燃えていない家を壊しに行くが、無理なのがわかり戻る。と同時に法明寺に "落下時分散して落ちる焼夷弾" が塊で落ち、空一面が真黒になり何も見えなくなり、隣りのお稲荷さんから徐々に燃え広がってきたので荷物を少し持って根津山に行く。

 根津山には百人位入れる防空壕が道路を挟み四ヶ所あってその一つに入る。

 東西南北が燃えて一面火の海と化した根津山が真空状態になりあらゆる物が吹き上げられた。道路に止めてあった四トントラックが持ち上がり、下に避難していた四、五人の人が落ちてきた車で潰されたり、木の枝には布団・衣類が花のように引っ掛りペラペラと火煙を出していた。

 朝になり自宅といっても焼跡に戻る途中、身を丸くして焼死した人に会う。先日までお得意様のおじいちゃんだった。手を合わせその場を去り家に着くと、見渡す限りの焼け野原に茫然と立ち竦んでしまった。

 父が警防団で目白出張所に居るので行って食事をさせてもらい、父と戻り二、三日片付けをしてから母の疎開先に落ち着く。

 戦争は多勢の生命財産を奪う悪であり、若い人達には味合せたくないと思う。 (当時十六才)

 

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母のもとには戻れなかった

 田中久子(2008年5月のお手紙より)

 

 足を痛めて歩行困難だった母に代り、和歌山へ入隊する兄を見送るため、生まれてはじめて母のもとを離れたのは17才の時でした。

 

 大事な兄入隊の見送りの役目を果し和歌山駅へ。簡単に切符が手に入らないことを駅員さんから聞かされましたが、ひたすら頭を下げ続けました。

 しばらくして、涙も枯れた私に「この切符をお渡しすることが良いのか悪いのか、わかりません。途中で万一のことでもあったら貴女のお母さんに申し訳が立ちません。サイレンが鳴ったら必ず安全な所に避難して下さい。無事にお母さんの所へ帰れることを祈っていますよ」

 

 何回かの空襲警報のサイレンを耳にしながら無事池袋駅へ。我が家の方角すらわからない程の変わり様。家族の姿を目ざして歩きました。「おばあちゃん、おかあさん…」声を限りに呼び続けました。返事はありませんでした。

 池袋駅前の根津山に避難した家族、突然の竜巻でトラックが倒され母は亡くなりました。(当時十七才)

 

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空襲の根津山の一夜

【聞き書き】横谷イセ子(豊島区東池袋在住・九十才)

 十年ほど前(1996年)、風の交差点の聞き書きに参加させて頂いた時に取材しました。

 

 山崎登志子さんのお話

 夫は徴用になって長島飛行機工場へ行っていた。二週間に一度帰宅して夕方にはかえった。三月十日の下町大空襲を見たり聞いたりして、これは大変と予(か)ねて頼んでおいた舅の郷里富山県の泊町へ母と二人の幼子を連れて縁故疎開した。

 此処では、非常によく面倒見てくださったが、四歳の子供が馴染めないで「池袋へ帰りたい」と毎日、毎日食事もしないで、しょんぼりして駄々を言う。

 それではと、残して来た物を取り序(ついで)に池袋八百十五番地「現在東池袋一丁目」キンカ堂前、東池ビルの立花証券のすぐ後の我が家に帰ってきたのは四月十日の朝でした。

 それから三日後、明日には富山に帰ろうとしていた夜十時空襲警報が出てとにかく根津山の防空壕へ急ぐように警防団からの指示で、おばあさんと子供を連れて行った。

 防空壕は幾つもあったようだが警防団の人に誘導されるままに入った。一番奥に入ったので後の街の様子は分からなかった。

 他の防空壕でまだ臨月には早いのに陣痛の始まった女性がいるという話しが出たが、幸い産婆さんがいた。私達も大事な配給の生理用品の中から皆が少しずつだした。

 根津山には爆弾も、焼夷弾も落ちなかったのが幸せだった。

 夜が明け山から見た街は、駅前も焼け野原で、護国寺の屋根と池袋駅の駅舎は焼けてホームだけが見えた。

 勿論わが家は焼けて、灰の塊だった。 (当時二十四才)

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根津山惨禍

 雑一おもと会 中村清松(豊島区雑司が谷在住・寄稿時八十九才

 【本稿初出】「豊島区高連広報」 平成七年七月十五日発行

 

 一 思えば昭和二十年

  戦局いよいよ行き詰る

  四月一三日夜半のこと

  首都城北の大空襲

  桜満ち咲く池袋

  根津山地区も狙われて

  絨毯爆撃焼夷弾

  家屋全焼三萬余

  焼死者実に七百余

  灼熱旋風大竜巻

  家も車も人間も

  燃えさかる萬象悉く

  宙に向かって吹き上げる

  地獄絵にもない凄まじさ

二 燃え焼き盡くし夜があけりや

  見渡す限り焼け野原

  雑司ヶ谷霊園から池袋の

  駅のホームで乗り降りの

  人の姿がよく見えた

  焼けた樹木の幹枝に

  黒くくすぶりへばりつく

  衣類寝具に家具たたみ

  車リヤカーの残骸が

  飛ばされ来て横転し

  残った水道の蛇口から

  チョロチョロ滴る水の音

  役に立つのか放心の

  枯れた涙に潤いか

三 あれから丁度五十年

  九死に一生得た人も

  数が少なくなった今日

  後世に伝えるすべも減り

  無念の憤死を遂げた人

  何処の誰かも判らずに

  只々 個数で葬られた

  数多の同胞思うとき

  平和で豊かな現在の世に

  居合わせた者の責念で

  心からなる懺いと

  永久の平和を誓う事

  そして根津山惨状の

  真実 後世に博うべき

 

 

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【豊島区発行「豊島区史・通史編」より】

一枚のセルの着物

 抜井光子(文京区千石在住)

 

 昭和二〇年四月一三日、よく晴れた日でした。家の前に掘った防空壕に、何ヶ月か入れておいた少しばかりの家財と着物を出して風に当て、その日は暮れました。

 その夜、いつものように警報が鳴り、また例によって毎晩のこととて、着替えはしたものの、また布団にもぐり込んでいました。しかし、空襲となり、敵機が頭上を飛び、探照灯にてらしだされたB29とおぼしきものがハッキリと見えました。

 私の住んだ雑司ヶ谷には、当時、根津山とよばれていた雑木林があって、横穴式の防空壕がいくつもありました。

 焼夷弾が落とされはじめ、空は赤く焼け、あちこちで類焼をまぬがれようと空き屋をこわしている音が聞こえます。このごにおよんで、家の一、二軒こわしたところで、何の役にも立ちませんのに…。皆一生懸命でした。

 私と母は、なすすべもなく、位牌と、少しばかりの食糧を持ち、布団等は隣の墓地に運んで、トタン板をかぶせました。

 火炎が近くまできて、非常に危険な状態になりましたので、根津山の壕へと向かった時、近くに焼夷弾が落ち、ただ茫然としておりました。何とも綺麗で、すさまじい光景でした。あたりは一面火となり、ものすごい風が吹き、そこいらの物が舞いあがりました。焼夷弾は一発が一六くらいに別れて、落下してきました。私のいる位置から二、三メートルの所にも落ちました。防空頭巾で頭を押さえ、地面にひれ伏していましたら、身体の上にドサリッと落ちて来たものがあります。一枚の男物のセルの着物です。恐ろしさのため、まんじりともせず、一夜が明けました。

 私の家は全焼となり、墓地に運び出した品物も全て灰になりました。家の台所にあったコーリャン入りのご飯が、真黒に炭になってしまいました。このお釜は現在も記念に残してありますが、まだ使用できます。

 根津山は死体が累々と横たわり、焼けた顔がテラテラと光ってふくれて、異様な臭気がただよっていました。

 肉親の安否を気づかってか、ゴザを一枚一枚はがして、尋ね歩いていた人も沢山いました。

 その時でしょうか。頭のもげた子供を背に、狂気のように歩いていた母親の姿もありました。その日は壕ですごし、親戚も全焼しましたので翌日は知人を頼って、高田馬場のアパートに落ち着きました。

 そこでの生活も一ヶ月余り。再び五月二四日羅災し、何もかも失いました。

 竜巻のような風に吹かれて飛んできた一枚の着物が、それからの幾年かの私の洋服となりました。

(当時十七才)

 

※「豊島区史・通史」には、他に「根津山での一夜」(風間洋朗)があります。長文で大変詳しい被災体験ですので、是非、読んでみてください。

 

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<被災証言集第2集>より


根津山に逃げた

 田中 不二(埼玉県蓮田市在住)

 

 自宅(雑司ヶ谷五丁目六九四番地)の裏が根津山でした。当時私は高田第二国民学校三年生(八才)、第二次集団疎開で長野県豊野に行く予定でしたが、当日風邪をひき、四月一三日の空襲に遭いました。

 当夜、私・母親・手伝い家政婦さんの三人で、大下宇陀児さん(探偵小説家・五丁目町会長)達と根津山に逃げたと記憶しています。兄二人は学徒動員で不在でした。火災に依り火の海の中を、水を飲みながら逃げたと思います。

 空襲で直接焼夷弾は落ちませんでしたが類焼でした。幸い私共三人は怪我も無く無事でした。

  被災後は母親の出身地埼玉県草加市に疎開しました。

   現在でも、たまに池袋駅に下車しますが、駅西側の英和幼稚園の所在地はラブホテル街で昔の面影はありません。

(二〇〇八年四月)


戦災に遭遇して

 神戸 美枝(よしえ、旧姓・矢部、豊島区要町在住)

 

 昭和二〇年四月一三日、B29が池袋の上空に襲来した時、我が家は武蔵野館の裏隣(豊島区池袋一ノ六三六)に住んで居りました。区画整理になって取り壊され残った家に住んで居りました。私は当時一五才でした。

 祖母は疎開、父は出征、兄は士官学校へ行って居り満州の方へ飛び立ちました。家には妹一二才、弟六才、妹五才が居りました。妹弟達を先に逃げさせ、母と私が残りました。そのうち油脂焼夷弾の中を、母と二人で布団をかぶって東口から西口へ通じるガード(現在のパルコ寄りのガード)をくぐり抜けて逃げました。洋服に火がついた人、泣き叫ぶ人、色々な人間模様を目にしながら立教大学迄たどり着き、講堂に避難しました。そこでおにぎりとお茶が出たのです。その時の感動は今でも忘れません。

 もうすっかり明るくなった頃、一面の焼け跡を見に行きました。何一つ目印になるものがありませんでした。すると近所の方が妹弟達の居場所を教えてくれたので、根津山に迎えに行きまた。しばらくして再会をすることが出来ました。涙の対面でした。

 その後、妹弟達は栄養失調により妹の一人は六才で亡くなり、現在も上の妹と弟は、戦争の後遺症による病気で苦しんで居ります。本当に戦争とは何だったのでしょうか。

 (二〇〇九年) 

 

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私と戦争(戦災の日のこと)

 矢部喜美代(練馬区南大泉在住)

 

 けたたましいサイレンの音で深い眠りから目が覚めた。 "またか"このところ毎日のように安眠を脅かされている。でも、何か違う。いつもと違う。布団から飛び出して空を見上げると、アメリカの飛行機が我が家の方向(今の池袋東口のビックカメラの後ろのあたり)に向かって飛んでくるではないか。バラバラバラバラと爆弾を落としながら。

 近所が騒然とし出した。人々がわめきだした。

 この時、母が私に向かって言った。いつもの優しい母の顔ではなかった。

 「広明(弟六歳)と和代(妹五歳)を連れて先に逃げなさい。お母さんは美枝(姉一四歳)とこの家を守るから。阜く行きなさい。」

 私は、半べそをかきながら弟妹を両手につないで近所の人たちと、根津山(今のキンカ堂のあたり)にある防空壕へ避難した。途中、何回も何回も防空頭巾にかかる火の粉に水をかけて消しながら。

  防空壕の中は、どこから逃れてきたのか、たくさんの人たちの人いきれで、むんむんとしていた。それは、一九四五(昭和二〇)年四月一三日の夜のことだった。

 何時間ぐらい経っただろうか。まんじりともしないうちに、入り口のあたりが白み始めてきた。 

  一人、二人、外へ出ていく。私もそれに従った。そしてわが目を疑った。

 何だこれは。何もないじゃないの。見渡す限りの焼け野原なのだ。ただ一つだけ目に入ったのは、遥か彼方にある護国寺の屋根だけだった。

 私の家は、そして母は、姉は何処へ行ってしまったの。呆然として立ちすくんだ。私だけではない。近所のおじさんも、おばさんも、壕からでてきた皆が、ただ声もなく、うつろな目を自分の家の方向に向けていた。

 どのくらいの時間が経っただろうか。誰が言うともなく人々が歩き出した。自分の家のありかを確かめようと。

 私も、弟と妹の手を引いて、自分の家の焼けただれた残骸の上に立った。

 ご飯茶碗の模様がかすかに残ったかけらを手に取ってみた。私が、毎日使っていたお茶碗だ。この時初めて涙がこぼれた。

 中でも、私が一番悲しかったのは、小学校六年の時に集団疎開先で罹った小児結核で「学業を続ける事は無理だ」と主治医から言われていたのを振り切って入学した女学校の新しい教科書が、跡形もなく燃えてしまったことだった。

 その時、誰かが叫んだ。

 「喜美代ちゃーん、あそこを歩いているのはお母さんじゃないの?」

え!急いで振り向いてみた。母だ。そして姉だ。まるで罰ゲームで墨をぬられたような真っ黒な顔で近づいてきた。家族五人は、お互いの無事を何回も何回も確かめるように抱き合って喜んだ。

 この一瞬、失った物の悲しみは再会の喜びで消えていた。「家を守るから」といっていた母と姉が守り通したのは、重い大きな掛け布団を一枚だけだった。

 戦時中とはいえ、職業軍人だった父や兄の関係で、ほかの人より多少は恵まれた生活をしていたのは子供心にも感じていたが、この日を境に私の病気と併せて、どん底生活に変わっていった。

 それから間もなく、妹は結核性脳膜炎に羅り、手の施しようもないまま病院の一室で「頭がイタイヨー、頭がイタイヨー」と泣き叫びながら死んでいった。戦争が終わる日の数日前に。

 五〇年以上経った今も、その悲痛な声は私の耳に残っている。

 あの戦争が、何もかも狂わせてしまったのだ。でも 私の父が、兄がその戦争の先頭に立っていたことの報いなのではないか等と、思ったこともあった。

(一九九八年八月一日記)

 

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焼け出され始末記

 岡田 和道(清瀬市竹丘在住)

 

 あの戦争の忌まわしい記憶など、忘れてしまいたいのだが、私の心の何処か、ひっそりと生き長らえている。時折何の前触れもないまま、ひょっこり顔をだす記憶とやらの気紛れには時々泣かされる。然し人間七〇年も生きてくると、肉体、頭脳、そして精神も確実に衰えてくる。記憶の鮮度が落ちるのも仕方のないこと、出来る限り記憶の断片を掘り起こし、つなぎ合わせて書いてみよう。

 

 当時私は、東武東上線沿線下板橋近くの富士光学と云う会社で、レンズの研磨工として働いていた。社長以下全員、日の丸と神風という字を染め抜いた鉢巻を締め、緊迫した中での作業ではあったが、当時電力事情が非常に悪く、停電は日常茶飯事、その上警報の度に防空壕に避難、その度に仕事は中断、遅れを取り戻そうと徹夜の作業が続く事もあった。この頃には戦況も末期的状態、新聞にも「本土決戦」などと言う文字が頻繁に書かれる様になってきたが、徹底した軍国主義教育が身に付いてしまっている私は、日本が負けるなど想像も予想も罪悪と思って居た。耐え忍んで勝つことしか教えてくれなかった。

 

 昭和二〇年四月一三日、天気は快晴。何年か前ならこの時期、戦争中ではあったが、そこそこお花見気分に浸れ、のんびりとした雰囲気が町内にはあった様だった。しかし、昭和一九年前半から翌年に掛けて、本土空襲はその激しさを増し、東京全域が、B29の無差別爆撃に曝され、連日連夜市内の此処彼処で、爆弾と焼夷弾で町並みが次々と消滅していった。その悲惨さは分かっては居たものの、被害が自分に降りかかって来ないので、もう一つピンとこなかった。それが、数時間後に厳しい試練にあうとは......。

 一三日夜、暗い電灯の下での夕食。あいも変わらず芋飯、おかずもサツマイモの精進揚げがお皿に山盛り、そして白菜の漬け物とタクアン。当時は何故かやたらと腹が空き、常に胃袋は飢餓状態、当然食事の時には ガツガツと腹一杯詰め込まないと食事をした気がしない。その晩も食べまくった。然しこれがいけなかった。 それから数時間後に激しい腹痛に悩まされる事になるなんて......。

 

 サイレンが断続的に遠くまた近く鳴り始めた(午後一〇時四四分警戒警報発令/資料『東京空襲戦災誌』による)。聞き慣れた音なので、又かという感じで、さしたる緊張感もなくラジオ放送を何となく聞いていた。何時の間にか私は眠ってしまった様だ。

 「和道、和道、空襲警報だぞ」突然父に起こされた。柱時計を見ると午後一一時を少し回っていた。玄関前の防空壕に慌てて入る。防空壕と言っても誠にお粗末な作りで、中に居れば多少の安心感はあるかなあ、という程度のものではあったが、とにかく壕の中でじっとしている外無かった。

 四~五分も過ぎただろうか、ゴロゴロという音と爆発音が異常に近くに聞こえる。危機感を感じたのだろう、父が「外の様子を見てくる」と言って飛び出して行った。私も父の声に釣られて外に出て辺りを見渡した。わずかな時間の流れでこんなにもまわりの様相が一変するとは。町全体が真っ赤に染まり、上空にはB29爆撃機の巨体が超低空で悠々と飛んでいる、と言うより止まって浮かんで居るかの様だ。アメリカのマークが、機首の風防から突き出た機銃も、はっきりと見える。

  父が息せき切って帰ってきた。「近所の人はもう避難したらしい。阿部さんの様子を見てこい。居たら急いで連れてこい。根津山に避難するから」突然言われた私は驚きと同時に一瞬不安に。「えーこんな時にどうして」と私が戸惑っていると、父が怒鳴った。「文句を言わず早く行け」

 とにかく走った、夢中で走った。わずか二〜三分の距離ではあったが、あの時は何か、とてつもなく、長い時間を走っているような、そんな感じだった。「阿部さーん 小父さん 叔母さん」家の中は真っ暗、人の気配は無い。三~四回呼んではみたが返事が無い。すでに避難したらしい。

 家を出た途端、五~六メートル先の道路上に閃光が。 一瞬私は立ちすくんだ。目の前で焼夷弾が幾つもの光の帯になって、ゆっくりと弧を描いて地上に落ちた。そこには油脂がべっとりと張りつき、めらめらと、まるで野火の様に燃えている。恐怖感と焦りで頭の中はもうパニック状態、私は夢中で火と煙の中を突っ走った。まわりには、火がじりじりと迫って来ている。もう避難場所は根津山しかない。

 

 どのような道を通って逃げたのか、今考えてもはっきりしない、と言うよりも、覚えていないと言ったほうが良い。途中同級生だった古橋君の家の前を通って行ったのと、寺の山門を横目で見ながら走り抜けた記憶がある。時折熱風が吹いてくる。顔が異状にほてる。 途中、一軒の家の前のコンクリート製の防火用水桶に、半分程の水があるのを見つける。父は素早く防空頭巾を脱ぎ、用水桶にザブリと漬けた。私も母と妹の頭巾をひったくるようにして水に浸した。水というより、お湯に浸したという感じ。煙で目が痛い、息が詰まる、不安がよぎる。妹は父の背中で恐怖と戦っているのだろう、唯々無言。時折母が妹の背中を叩いて励ます。妹、無言でうなずく。

 護国寺通りに何とか行き着いた。視界が急に開けた。 熱風が通りを吹き抜ける。目の前に、根津山の雑木林が、赤く染まった空の下に黒く鮮やかに見える。もう 大丈夫と自分に言い聞かせる。父も母もほっとしたようだ。根津山には、うなぎの寝床の様な防空壕が幾つもあり、私たちも早速避難。壕の中は、土と藁の匂いと、ひんやりとした空気。興奮と緊張が少し和らいだ。すでに避難してきた人々が十数人居たが、何故か皆、入り口の近くに身を寄せ合うようにして外の様子を窺っている。私たち親子の命を委ねられる場所はこの貧相な防空壕しかない。とにかく中に入る。私たちも何となく入り口に近い場所に落ち着いた。その間にも絶え間のない爆発音、ゴロゴロと遠雷によく似た焼夷弾の落下音、時折パンパンと竹が弾ける時の乾いた音、そして風。

 そう、風と言えば、とんでもない事が起きたのである。この時、まわりの皆の会話はあまり無く、ただただじっとしていると、何分ぐらい経っただろうか、突然、全く突然と言ってもよい程、ゴオウーと言う音。 ものすごい強風と砂塵で目の前が暗くなり、気温が急激に下がり始めた。入り口の前に置いてあった蒲団、柳こうり、ボストンバック、驚いた事に大八車までが、宙に浮いたかと見るや、あっと言う間に私たちの視界から消え去った。人々はただただ呆然として居る。命 からがら持ってきた最小限の財産が、いとも簡単に消えてしまった。キャーと言う声が外で聞こえる。無事だったんだろうか。これが竜巻と言うものか。短時間ではあったが恐ろしい体験であった。

 風の勢いが急速に衰え始めたので、恐る恐る外に出て辺りを見回す。あの風の中、壕の外に居た人たちは 皆、数分前のあの出来事は「一体何?」と、信じられないという顔をしている。しかし荷物だけはしっかりと抱えている。見上げると木々の枝には着物、帯、布 団、下着などが引っかかり、風に揺れている。神様は私たちを、どこまで痛みつければ気がすむのか。時間の経過がよく分らない。早く夜が終わってくれ。

 気がついてみると、聞こえてくる爆発音の間隔が、少し長くなって来て居るような感じがする。山場を越えたのかも知れない。時間の経過と共に、根津山を囲 んだ火と煙の範囲は、じりじりと狭められて来ている。

 そんな時、父が突然「叔母の家に荷物を取りに行く」と、とんでもない事を言い出した。どうも本気らしい。今にも走りだしそうな気配だ。父の言葉に私も母も唖然とし、一瞬声も出ず、頭が狂ったとしか思えない。いつのまにか、母と私は父の両腕をしっかり掴み、行かせてなるものかと母が必死になって説得する、というより泣きながら哀願する始末。私も懸命に説き伏せる。親父の強情さには、ほとほと参った。池袋駅方面からは、ものすごい火と煙の壁が立ちはだかり、ましてや西巣鴨方面など、天と地の境が分らないほど真っ赤に染まっている。父もどうやら落ち着きを取り戻した様だ。黙って壕に戻った。私も母もほっとした。しかし、あんなにこだわっていた荷物の中身が何だったのか、一度聞いて見ようと思ってはいたが、ついぞ聞かずに終わってしまった。

 ついてない時はこんなもので、今度は私自身のアクシデント、突然の腹痛に襲われる。余りの激痛に思わず「イターイ」、母が心配して「和道、大丈夫かい、食べ合わせが悪かったのかしら」。それにしても、こんな時に......。「便所に行ってくれば」と言う父の言葉を聞いた途端、もう我慢も限界、壕を飛び出した。「便所、便所だ」。考えてみたら、当時の根津山には公衆便所など有ろうはずもなく、とにかく適当な草むらにしゃがんだ場所が、即ちトイレである。まわりは火と煙が渦巻いていると云うのに、ズボンを下ろし、おしりを出し、ウンウン唸っている私の姿は、滑稽というか惨めと云うか、まわりの風景とは余りにもミスマッチ。もうどうにでもなれ、半分やけっぱちの心境。そ れにしても激しい下痢だった。原因は昨夜の薩摩芋の精進上げの食べ過ぎだった。壕に戻ると、母が「余り長かったから心配してたのよ」、私「うん、少し良くなった」。腹痛から開放され、やっと自分を取り戻した。もう根津山に来てから何時間経ったのか、時計がないのでさっぱり分らない。

 

 私はいつのまにか寝てしまったようだ。「和道、夜が明けたぞ」と突然父に起こされた。壕の外から乳白色の淡い光が差し込んでいる。長い長い一夜がやっと終わった。壕から這うように外に出て空を見ると、煙の中に、ぼんやりと太陽がゆらいで見える。昨日の美しい朝と、今朝の余りにも見苦しい風景との落差に、私は心のバランスをとるのに、いささかのエネルギーを費やした。

 見渡す限りの瓦礫また瓦礫。予想はしていたが、現実を見せつけられると、これはかなりのショックだ。 焼け跡の中に点々と残る、コンクリートの建物の残骸は、まるで巨大な墓石の様だ。煙の中を人々が歩いている、と言うより夢遊病者の様にうろついている。

 幸い父の知人が椎名町に住んでいる。一晩何とか泊めてもらおうと云うことにした。その知人の家が被災を免れたかどうか、まったく分らないのだが、ほかに行く当てなどない。

  熱気は余り感じなかったが、瓦礫の中に入ると体が異様に熱くなってくる。父が「家の焼け跡に行ってみるか」と、なかば自嘲気味に私に言った。いまさら行って見たって...とは思ったが、私もこの目で確認したかった。重い足を引き摺りながら探す。昨夜まで暮らしていた家なのに、まるで見当が付かない。

 私が「この辺や、もっとこっちだ、だいたいこの辺かなあ」と言いながら、足で瓦礫を掻き分けた。靴底から熱気が伝わり、じっとして居られない。どんよりした煙の中、他の人々も何かを探しているかのように、棒切れで瓦礫を突っついている。むなしい行為で はあったが、分るような気がする。私も足でかき回して居たのである。

 突然、近くにトラックが止まった。荷台から四、五人の兵隊さんが飛び降りた。手には鳶口、焼死体の収容らしい。鳶口に引っかけられた死体が、ずるずる引き摺られてくる。集められた死体が重なり合っている。二人の兵隊が無造作に次々と荷台に放り投げている。よく見ると、ほとんどの死体の両腕が体の前に突き出して居る。どの死体も真っ黒、男女の区別など分かろうはずもなく、黒いマネキン人形の様だ。これは正に地獄絵図。しかし、まわりの人々はまったく無関心のようだ。私とて、その一人だったかも。

 「行こうか」父の元気のない言葉。さすがに疲れたのだろう。私たちは重い足取りで歩き始めたのだが、その時、薄煙の中から、大きなリヤカーを引いた女の子が、右に左に小さな体を揺らしながら私たちの目の前に。何処かで見たような顔、私の家の近くの子には違いないのだが。「かあちゃんが死んじゃったよう、かあちゃんが」と、ただ泣くと言うより、悲鳴に近い声で泣いている。私たちの顔を見て、リヤカーを止めた。「かあちゃんが、かあちゃんが」と荷台を指差し、私たちに向かって訴え始めた。荷台には焦げた布団から焼け爛れた足が、地面を引き摺るように露出していた。母は「かわいそうになあ」、父無言、私も無言。今は自分のことで精一杯なのだ。女の子には、余りにも残酷な、そして無慈悲な事だが。まったくやり場のない気持ちだ。

 少しの間、女の子は私たちの前で泣きじゃくって居たが、また母親を乗せたリヤカーを引き始め、泣き声と共に薄煙の中に溶け込んで行くかのように見えなくなった。...私たちもゆっくりと、歩き始めた。いつ立てたのか小さな木片に墨で「不発弾有り、注意」の立て札があちこちに有り、びくびくしながら歩く。も 昼近くなる。煙が少し薄れて来たせいか、太陽がまぶしい。私はもう一度振り返った。まだ大勢の人たちが、焼け跡にうごめいている。煙のスクリーンに影絵を見ているようだ。

 幸いにして、父の知人の家は何とか焼けずに残っていて、ほっとする。父は一晩泊めてもらえるようお願いした。先方のご夫妻も大変同情してくれて、「一晩なんて言わず何日でも」と言って戴き、私たちはご夫妻のお言葉に甘えることにした。と言うより他に当てが有るわけでは無く、お世話になるしかないのだ。とにかく一晩だけでも雨露しのげる事ができる。まずは一安心。その晩はなかなか寝つかれず、昨日からの出来事が、私の脳裏に昔の無声映画のフィルムを『フィードバック』させて繰り返し見ているような、中々寝つかれない夜だった。

 

 四月一五日、快晴。自分たちの命を守るのに精一杯だったので、会社の心配などする余裕など無かったが、また一夜明けて、やっと自分を取り戻した様だ。ラジオの情報では、焼失区域もかなりの広範囲に及んでいる。多分工場も廃墟と化しているだろう。分っては居るけれど、この目で確認したかったのと、義務感みたいなものが少し有ったのか。しかし交通網はずたずた。会社へは徒歩で行くしかない。

 線路沿いに池袋までトボトボ歩き、鉄骨と焼け爛れた電車を横目に、東武東上線の線路上を下板橋に向かった。線路の上を歩くのは以外と疲れる。枕木がまだくすぶって、ぶすぶすと燃えている。途中何人かとすれ違ったが、皆伏し目がち、傷心しきった顔、怒っているような顔。皆固い表情、煤けた顔に眼だけが異様に鋭い。私もその一人、いったいどんな顔をして歩いて居ただろうか。

 三〇分程歩いただろうか。線路の右端に数千のカンカラの山が出来ていて、大勢の人たちが腰をかがめて、何かを拾って居るようだ。何だろう。私は吸い寄せられる様に皆のいる場所に行ってみる。人々の中に入って缶の一つを拾い上げて見ると、なんと幼児用の粉ミルクではないか。表面は焦げて真っ黒だが中身は真っ白。まさしく粉ミルクそのもの。恐る恐る舐めてみる。甘い、これはいける。ポケットを総動員、詰めるだけ詰めて、下板橋に向かって歩く。

 工場の真ん中に立ち三六〇度見回してみる。とにかく見渡す限り灰色の世界、絶望まさに絶望。昨日までレンズを一生懸命に磨き共に働いていた機械がみんな白骨化しているように見える。

 誰かがこちらに向かって歩いてくる。有馬君だ。苦笑しながら、突然、私の手を握った瞬間泣き出した。お互いに理由などない。とにかくお互いに抱き合って泣いた。「君ん家は」、私が聞いた。彼は無言でうなずいた。私が聞いた。「これからどうすんの」、「わかんない」。一〇分ぐらい立ち話をしただろうか。彼が「俺帰る」と、サヨナラも言わず、振り向きもせず早足に帰って行った。彼も何か心配事でもあるのかな、無理もない。私もいつ迄もこうしてはいられない。工場の無残な焼け跡から早々に立ち去ることにした。

 かくして私たちは大混雑の東海道線に揺られながら母方の里に身を寄せる事になる。

終り

 

本稿は兄が七六才で亡くなる前年(平成一七年)に書き残したものです。       妹・岡田博子

 

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空襲下を生き抜いて

 矢澤としゑ(板橋区常盤台在住) *「根津山へ逃げた」峯岸郁子の叔母

 

 私は女学校を出ると女子師範へ行く予定でしたが、すぐに代用教員になり二三歳までの六年間、小学校の先生をしました。一昨年教え子が喜寿のお祝いに集まると言うので諏訪まで行ってきました。みんな昔のままで…。

 私の記憶では「かあちゃん、できたよ」といって手をあげた幼い顔が二重写しになって、とても良い一日を過ごしました。私も九一歳になりました。

 

 昭和一七年に結婚して東京に出てきました。あの頃は男の人はみんな戦争に行ってしまい「トラック一台分の女に男が一人」という時代でした。

 昭和一八年に長女が生まれました。戦争には必ず勝つと軍部では言っていても、私たちは何の情報もありませんでしたが「負ける」と思って暮らしていました。そんなことを口にしたら憲兵に連れて行かれてひどい目にあいますからね。しかし戦争はどんどん激しくなり、物がなくて毎日の食べる事に苦労しました。洗濯だって冷たい水で洗濯板を使って手で洗うんだし、食事だって火をおこすところからはじめるのだから大変でした。

 主人は理化学の工場を経営していました。従業員は始め五人位でした。家と工場は、今の豊島区役所の隣にありました。あの頃の男の人は、仕事に対する情熱と国への使命感で燃えていましたね。私もそれを支えて必死でがんばりました。なにしろ家の事は一切私まかせで「子育ては女の仕事」という、そんな男の時代でした。「子供を育てる」という感覚は今とは全く違っていました。

 

 あの空襲の日のことは決して忘れることはありません。いつ空襲があるかわからないので男の人はゲートルを巻き、女の人はもんぺ姿で寝ていました。四月一三日の空襲の日はみんな自宅にいました。就寝前に警戒警報が鳴ったので、私達はすぐ防空壕に入りました。その時私は五ヶ月の妊婦でしたので、前もって祖母と長女を信州に疎開させていました。

 あの夜は主人と私、弟夫婦、姪の五人が一緒でした。防空壕の中でも外の凄い音が聞こえていたので、その惨状は手に取るようにわかりました。しばらくしてから主人は外の様子を見に行き「このままでは危ないから外に出よう」といいました。防空壕の入り口は火の海で三〇センチ程の炎が燃え立っていました。その炎を飛び越えてやっとの思いで外に出てみると、工場の燃料として積んであったコークスの山に火がついて盛んに燃え上がっていました。足元を見ると油がまかれたように黒々としていて、そこに火がつくので消しようがありません。

 当時、空襲の時に焼夷弾が飛行機からたくさん落とされたのですが、それは、直径三〇センチ、長さ六〇センチ位の大きな筒の中に油が詰まっていて、それが何十本も束になって一つの焼夷弾ができているんですよ。それが落ちると破裂して、あたり一面に油が飛び散り、すぐに火の手があがるんです。敷地にあったコークスの小山は二週間ばかり燃え続けていました。

 今のサンシャインは、前は「巣鴨プリズン(注:被災当時東京拘置所、地元では巣鴨拘置所と言われた)」のあった所で、そこだけがポッカリと黒い暗闇になっていました。「燃えていないのはあそこしかない」とみんなで黙々と走りました。

 昔は路地は道幅も狭く両側に下水溝があったので、とても足元が悪く危険でした。その上両側の家の廂が迫っていたので、その軒先を炎が伝ってゴーゴーと吹き出しのように渦巻いていました。あの頃はどこの家でも一つづつ防火用水を貯めておくコンクリート製の防火槽を持っていたので、男の人はその中に入り体全体を濡らし、女の人は火の粉を防ぐために衣類に水をかけました。そして暗い方へと走りました。

 やっとの思いで真っ暗な淋しい巣鴨プリズン(前注参照)の石塀までたどりつき、草茫々の原っぱに土を掘り、火の粉を浴びないように、うずくまるようにして丸くなりました。しかし濡れた衣服のままなので、余りの寒さにふるえが止まりませんでした。

 私たちは防空壕を出るのが遅かったためか、逃げる途中では誰にも会いませんでした。ただ無言のまま、ひたすら走りました。気がつけば誰一人怪我をした様子もなく、血も出ていないのでホッと安心しました。それから雑司ヶ谷、根津山へと向かいました。でもどこの防空壕も人がいっぱいで入れませんでした。いつまた焼夷弾が降ってくるかわからないので、またまた歩き続けました。

 逃げる途中でB29が三機ばかり、夜目にも白く輝いてまぶしく見えました。夜中の二時から三時頃、今のグリーン通りに向かいました。二階建ての家が窓から火を吹き出していて、あたり一面火の海でした。

 

 明るくなってみると全てが焼けて、本当の焼け野原になっていました。都電のパンタグラフの配線の上に布団がのっていて、ブスブスと燻ぶっていました。馬車一台、消防車が一台焼け残っていましたが人影はありませんでした。当時西武の前が都電の終点になっていて、都電の走る道だけが石畳とコンクリートの幅広い道路でした。私たちはその終着駅の線路の上に立っていました。そしてそのまま朝を迎えました。

 それから「家がどうなったか見に行こう」と歩きはじめました。木造だった豊島区役所も私たちの家も工場も丸焼けでした。その頃、弟夫婦は所帯を持ったばかりでしたが全てを失いました。そこで弟のつれあいの住んでいた家が阿佐ヶ谷にあったので、そこに行くことにしました。道の先に男の人の死体が焼け焦げて転がっているというので、「私は見たくない」と引き返しました。

 昔、今の三越と映画館の前に赤い郵便ポストがありました。そのポストの口が赤い炎を吹き出している状景は今もはっきりと思い出されます。そんな時「立教大学に行くと一人に一袋づつ乾パンが貰える」という情報が伝わってきました。みんなで立教大学に行って乾パンを貰い、それを食べながら阿佐ヶ谷へ向かいました。途中でさつま芋を一本拾い生のまま食べました。後で「祖母と娘を疎開させておいてよかった。もし二人が一緒だったら助からなかった」と何度も話し合いました。

 それにしても五人とも無事に生きていて、次の日の朝を迎えられたことが夢のようで、本当に有難かったと思います。そして男は東京に残り、女は信州に行くことにしました。

 

 その年の五月半ば、主人の仕事の関係で群馬県の渋川に行きました。私はそこで双子の男の子を産みました。お乳が出ないので近くの牧場に一升瓶をさげて牛乳を分けて貰いに行きました。そこで一人が「急性大腸カタル」になり、「今夜が峠」と言われたこともありましたが何とか助かりました。昭和二三年に次女が生まれました。その後四人の子供を連れて東京に戻ってきました。

 常盤台の少し先にある清水町に家を買い越しました。しかし、そこには未知らぬ人が住みついていて六人で暮らしていました。私たちもそこに入りました。でも台所は一つ、お手洗いも一つで、とても苦労しました。昔のお手洗いは「くみ取り式」でしたからね。あの頃、焼け跡に全く知らない人が住みついていて、元の持ち主が戻れないと言う話をよく聞きました。

 

 あの時、一緒に逃げて、今生きているのは私と弟のつれあい、姪の三人になりました。あの逃げまどい、火の海となっていた池袋が今こんなに発展して繁華街になっているなんて誰が予想できたでしょう。まだ、たったの六六年しかたっていないのに…。

(二〇一一年一〇・一二月)

 

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<被災証言集第3集>より


根津山へ逃げた

 峰岸 郁子(世田谷区南烏山在住) *「空襲下で生き抜いて」矢澤としゑの姪

 

 自宅は長野県高遠にあり、大塚の窪町にあった東京女高師(現お茶の水女子大)教員養成コース理科に通う為、豊島区役所の脇にあった叔父のところにお世話になっていました。学校には昭和一八年四月に入学し、一九年六月に勤労動員確定と話があり、六月三〇日より中島飛行機製作所に動員となりました。夏休みもなく働いていましたが、九月二五日学校に戻り、学業と防空訓練などの日々を送りました。交替で他の女子学生が動員になりましたが、一一月二四日に中島飛行機製作所が空襲にあい死傷者が出た事を痛ましい気持ちで聞きました。

 次の動員は二〇年二月一〇日より陸軍気象部と理研仁科研究所でした。私達は気象部に配属となりました。最初将校さんが気象学の講義をしてくださり、配属先で仕事につきました。気象観測用発信機の組み立て、雲の観測などで参考にもなりました。そのうち、空襲がひどくなり、三月一〇日の空襲では林さんの安否が分からず、監督教官と友人で探しに亀戸に行ったこともあります。

 日を追うにつれ、クラスの人は次々に焼け出され、遂に学校の配慮で、杉並の馬橋にあった気象部の隣の焼け残っている家に七〜八人泊めていたくこともありました。

 四月一三日は下宿先池袋の叔父の所にいました。皆が「逃げるぞ」と言い、玄関の靴をひっかけて二組の叔父夫妻と私の五人そろって逃げました。あちこちが燃え、火の無いところを目指し、周囲が火の中を逃れ逃れて逃げました。途中防火用水に頭を突っ込んで亡くなっている人や、逃げまどう人々の間をくぐり抜け、根津山に辿りつきました。根津山の周辺部に皆がうずくまっていました。燃え盛る火の街に目をやり、吹き上がり落ちてくる火の粉、焼けトタンなどを避け、轟音を立て焼夷弾をまき散らしながら旋回するB29の大群が去ってくれるのを震えながら、ひたすら、ただ待っている一夜。

 長い一夜があけ、太陽が上がって来ました。もうもうとした煙の中、ぼんやりと大きな黄色い太陽でした。強烈な悪臭、焦土と化した街、あちこちに黒焦げの死体。その記憶は鮮明に今も残っています。

 逃げる時の話は叔母の矢沢としゑの話(証言集第二集の証言)と同じです。池袋から阿佐谷北まで歩き通し、焼け残っていた叔母の実家に終戦後までお世話になり学生生活に戻りました。

 学校は三年のコースが二年半に短縮となり、九月三〇日に卒業しました。一年半の勉強で後は勤労動員の学生生活でした。神戸の女学校で求人があり赴任しました。

 (二〇一六年五月)

 

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本立寺の脇を通り根津山に逃げた

 越 敬一(豊島区池袋本町在住)

 

 私は当時、本立寺の傍の雑司ケ谷五丁目に住んでいました。埼玉銀行で勤務していましたが、国民総動員で徴用され一八年九月より横河電機で働いていました。計器のメーカーで潜水艦の計器を作っていました。工場は三鷹にあったのですが、空襲の危険性があるとのことで、一九年四月藤沢の辻堂に移転しました。しかし、ここも江ノ島上空をB29が通過していくのが見えて再移転の話が出ていました。工場の監督で海軍中佐がいて、新潟県村上市の村上中学に移転を判断しました。私は一九歳でしたが、年上が戦地に行き、藤沢の辻堂の工場では作業上の指示をする立場になっていました。

 徴兵検査が二〇歳から一九歳になって、今の目白小で受けました。合格しましたが、監督の海軍中尉が、工場で私が必要だから徴兵の延期を申請すると言いました。結局私は軍隊に行くことはありませんでした。雑司ヶ谷から辻堂まで通うのは大変でしたが遅刻することなく通勤していました。姉は鬼子母神の傍の叔父に養子に行っていて、弟二人は学童疎開に、雑司ケ谷の自宅には両親と五歳の弟と私の四人で暮らしていました。

 毎日空襲警報が鳴って、三月一〇日の空襲の時は、私は平屋の我が家の屋根に登っていましたが、浅草方面は真っ赤でした。

  四月一三日に空襲警報が鳴って、三月一〇日の被害があるので、幼い弟と母を早く逃がさなくては危ないと思いました。豊島区で作った防空壕があって、一つ目は一杯で入れませんでした。二つ目は少し空きがあったので、母ともう寝ていた弟を入れました。ここで待っているように言い自宅に戻りました。

 近所の人四、五人で手押しポンプで家に水をかけていました。しかし、周りから火の勢いが強くなり、火の粉が降ってきました。手押しポンプでは役に立たず、最初に我が家の軒下に火がつき、屋根の方に一気に火が上がりました。危ないのでポンプを放り出して本立寺の脇を通り根津山に逃げました。防空壕に入ろうと思いましたがどこも一杯で入れませんでした。

 火の粉が落ちてきましたが、まだ風は吹いてきていませんでした。ところが大通り(現グリーン大通り)に出ると、猛烈な火の粉を含んだ風が吹いてきて、飛ばされそうになり、コンクリート製の電柱にしがみつきました。しばらく電柱にしがみついていましたが、火の粉で服に火がつきます。火の粉を振り払おうとすると飛ばされます。次から次へと火の粉が降りかかります。「このままでは死んでしまう」と思いました。

 大通りの反対側に、タカセの社長で森茂吉さんのお宅が今の巣鴨信用金庫のところに有りました。森さんは自宅で菊の展示会などもやっていて伺ったことがあり、「そういえば防火用水があったはず」と思い出しました。森さんのお宅の防火用水に飛び込むと一メートル三〇から四〇センチメートル位の深さで、そこにしばらく浸かっていました。 しかし、まだ四月で、浸かっていると寒くて辛く、防火用水から出ると火の粉、また浸かっての繰り返しをしていました。明け方になり、火災もだんだん鎮火してきたので、 自宅を見に行きました。

 自宅は丸焼けで、鶏を五羽飼っていましたが、柵の金網はぺちゃんこで鶏の骨も有りませんでした。近所では老夫婦のお宅でお爺さんが逃げず、焼け死んでいました。お爺さんは、道路の脇で赤ちゃんみたいに縮こまり、小さくなって焼け焦げて死んでいました。

  私の手には慌てて持った徴兵検査合格の書類が入った奉公袋があるだけでした。根津山の防空壕に母と弟を探しに行くと、防空壕で待っていて大丈夫でした。

 家族四人で、鬼子母神の傍の雑司ケ谷三丁目の叔父の家に行きました。四月一三日の空襲では焼けていないのでお世話になりました。母と五歳の弟は、東京は危険なので信州の飯田市に親戚がいたので疎開しました。私と父は仕事があり疎開は出来ませんでした。

 しかし、五月二五日の空襲で、この叔父の家も焼けてしまいました。空襲警報がしたので、着るものをみんな着て、逃げる用意をして待機しました。私は叔父の家の前、父は玄関ですがお風呂場の燃料の陰にいました。爆弾が叔父の 家を直撃し、天井が丸ごと落ちてくるような音がして、私は爆風で体が浮いて飛ばされ、靴は片方どこかに飛んで行ってしまいましたが、命は助かりました。父は陰に隠れていたので助かりました。

 鬼子母神は空襲を受けず、焼けなかったので、本堂に逃げ込み三日間いました。私たち以外に一〇〇名くらいの方が避難してきていて一杯で、夜は両肩をつけて仰向けでは寝られない狭さでした。

 その後はあちこちでお世話になったり、後の人世座(池袋駅東口近くにあった映画館)の辺りにバラックを建てて住んだりしていました。今の本町に二一年八月に引っ越して、現在に至りました。

 (二〇一三年四月)

 

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四月一三日に焼け残った我が家が...

 外口 志づ(豊島区目白在住)

 

 四月一三日は、池袋から、我が家からすぐそばの今の明治通りの歩道橋まで焼けました。私の実家が埼玉県飯能でしたので、空襲のときは逃げられるように、必要な物はリヤカーに積んでありました。リヤカーを引いて神田川を渡って氷川神社まで逃げて避難していました。他にも沢山の人が避難していました。知っている人がいて子供が震えていたのでリヤカーの布団を一枚上げました。空襲が終わり、戻ってみると我が家はなんとか助かりました。しかし、開けっ放しで逃げたので、家中埃だらけでした。

 翌一四日の配給が、今の日の出町の水窪であったので、根津山を通って行ったら沢山の死体が山積みになっていました。筵から手が出ていて膨れていて怖かったです。それから根津山を通るのが怖くて通らないようにしていました。焼け出された人は焼け跡の缶詰を拾いに行っていましたが、我が家は無事でしたし、そうした食べ物は嫌なので拾いに行きませんでした。

 五月二五日朝八時頃(現在の)千登世橋中学の先にB29が落ちて、あたり一面明るくなりました。目印になったのか、焼夷弾が落ちてきました。消防団の人が「逃げてください」と言いにきましたが、「嫌です。逃げません。逃げた先で死ねば身元不明の死体になるが、ここで死ねば服の切れ端でも残れば外口さんとわかる。家族四人ここで死にます」と答えました。しかし、消防団の人は「どうしても逃げてくれ」と聞きません。

 やむを得ず逃げようとし、逃げるなら四月に焼け野原になった池袋に逃げようと思いました。明治通りを池袋に進むと油脂焼夷弾がバラバラと落ちてきました。既に他の人は避難していて明治通りには我が家族だけで誰の姿も見えません。足元は火の海で、明治通りの真ん中で立ちすくんでしまいました。主人と私、三歳の長男はねんねこ半纏でくるんで背負い、五歳の長女は防空頭巾をかぶり、手をつなぎ、四人でここで死のうと覚悟をしました。ところが焼夷弾はその後落ちて来ないで助かりました。

 火が風を呼んで、ものすごい風が吹いてきました。雑司ヶ谷第二小学校のところに、当時サッカロゲンの薬の会社があって、そのコンクリートの塀に風を避けていました。長男のねんねこ半纏は油脂焼夷弾の油脂が張り付きゴワゴワになっていました。

 近所のおばあさんが下半身大やけどをしていて「動けない」と泣いていました。私たちも自分が逃げるのに精一杯で助けることが出来ませんでした。この方は東大病院の分院に運ばれ、お見舞いしましたが、足に蛆虫が湧いていて、やがて亡くなったと聞きました。

 家を見に行くと、途中電線が焼けて垂れていて、電柱も倒れたり傾いたりしていて、それを避けながら行くと、自宅は丸焼けでした。

 氷屋でしたので室の中を見たら、氷は溶け、配給の豆腐が焼き豆腐になって残っていました。裏に防空壕を掘ってあり、必要なものは入れてありました。もしもの為に常にご飯は炊いてお鉢に入れておき、茶碗などもそろえて防空壕にいれてありトタンで塞ぎ、その上に土をかけておきました。そっくり残っていて、焼き豆腐に醤油をかけて、ご飯を食べました。

 我が家の周辺で家が焼けた人は目白小に避難する指示が出ました。行こうとしたら、近所の(その一角は燃えていない)お付き合いのある名古屋出身の方が、「家においで」と言ってくださりお世話になりました。

 主人の実家が千葉の幕張にあり、主人の弟が来てくれ、二人の子供だけでも疎開をと連れて行ってくれました。私たちも転出届を出して千葉に行こうとしたのですが、なかなか許可が下りませんでした。六月に行けるようになって、主人と二人でリヤカーを引いて歩いて行きました。小松川で一休み、船橋で雨に降られ、幕張には夕方四時に着きました。覗くと二人の子供が農家の濡れ縁に腰掛けて座っていました。

 幕張の海岸通りに部屋を借りて生活しました。やがて目白に戻ろうと豊島区に転入届けを出しに主人が何度も豊島区に来ましたが、人口を抑制しようと、転出届以上に難しく手間取りました。「氷は病気などにも必要」などの理由を述べ許可が下りました。

 東京へは、千葉へ行く前に何日かお世話になった岡崎さんの家にいきなり行ってびっくりさせました。  

 その日の内に焼けた家の大家さんの新倉さんところへ行きましたら、奥さんが外水道でお米をといでいました。「お母ちゃん帰ってきたの」とびっくりし、「住むところはあるの」と聞かれ事情を話しました。「それでは明日の朝来なさい。おじいさんに話しておくから」と言ってくれました。

 翌朝新倉さんのお宅に伺うと「ここは区の配給の家でバラックだが、よかったら来なさい」と言ってくださり、嬉しく天にも昇る様な気持ちでした。氷の工場の外口社長に 住むところが出来たとお話をしたら喜んで下さり「工場の大工さんに冷蔵庫を作るように話をしておく」と言って下さりました。嬉しくて、主人と二人で「よかったね」と喜びました。

 大工さんに小さな冷蔵庫をお願いし、主人も手伝い、あっという間に出来ました。工場から氷を入れてもらい、主人がお得意様に挨拶に回ると「氷屋が帰ってきた」と喜んでもらい、四、五日経つと配達が始まりました。

 東京に帰るのを急いだのは、こうした仕事もありますが、長女博子の小学校入学も有りました。仕事もうまくいき、博子も入学でき、嬉しかったです。

 新宿駅の売店(現キヨスク)に氷を配達することになり、リヤカーで新宿まで主人は大変でした。その時分は荷物を運ぶのは馬車です。主人は新宿の帰りに、道に馬糞が落ちているとリヤカーの後ろにりんごの木箱を付けて拾って来ました。大家さんの裏の空き地を貸していただき馬糞を入れて土をならし野菜を七種類くらい作りました。とてもよく野菜が出来、近所の人に使っていただきました。野菜も配給でしたので喜ばれました。馬鈴薯も沢山出来て、子供さんの居る家にも上げました。

 池袋の西口・東口にはヤミ市が出来、東口のヤミ市の何件かのお店では氷を買ってもらっていました。目白駅傍に東京パンと言うお店があって雑炊を売っていました。しかし、我が家は近所の寿司屋さんがお米の配給があるからとご飯を分けてくれて、豆入りのご飯ですがご飯が食べられ、その雑炊は食べずに済みました。子ども一人にパン半斤の配給があり、我が家は二人ですので一斤が配給になりました。子供にひもじい思いをさせずに済んだと思います。

 仕事も順調で氷も売れるようになり、長女も一年生となってほっとし「生きていて良かったね」と言えるように なりました。

(二〇一三年四月)

 

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