追悼会立ち上げの経緯について


「小さな追悼会」が4月13日に行われるようになったのは、タウン誌「わがまち雑司が谷」の座談会(1994年9月発行)で、イラストレーターの矢島さんが「今の南池袋公園の辺りに昭和20年4月に空襲で亡くなられた方々が埋葬されています。供養されていないと思う」と発言されたことから始りました。

 1945(昭和20)年4月といえば、住民はその日の食物を得、戦禍から身を守るのがやっとの時代でした。空襲で亡くなられた方々の御遺体は、行政も住民も穴を掘って埋めるのが精一杯だったと思います。

 「4・13根津山小さな追悼会」は、雑司が谷一丁目町会長柳作治氏、イラストレーター矢島勝昭氏、区会議員副島健氏、高田中央町会長江原延一氏、南池袋二三四町会広瀬あきら氏、小田光野氏、他二三四町会の皆様方の努力によって平成7年に開催のはこびとなりました。

 後に追悼の碑が出来ましたが、当時は字の上手な方に「根津山小さな追悼会」の看板を大書していただきました。碑もないので柳さんとそのお隣の工藤義則さんにもお手伝い頂いて追悼碑らしきものを作りました。家から折りたたみの小机を持ち出して白布をかけ、白菊やお線香を置きました。『小さな』と名づけましたのは、たとえ二人でも三人でも集まって追悼会が出来ればとの心からでした。

 ところが当日になってみると、多数の方の御出席がありました。区よりも区長式辞、助役・区議の方々の出席がありました。

 小さな追悼会では豊島区にお願いをし、間もなくこれに答えて碑が建立されました。除幕式が行われましたのは平成7年8月11日蝉しぐれの中でした。

 根津山とよばれたこの地に碑が立てられたことは感慨深く、厳粛な気持ちでした。碑が出来たとて、それが目的ではありません。碑は戦禍の犠牲となられた方々の慰霊と、再びこの様な痛ましい戦がおきないよう平和を願う証なのであります。

 追悼会の内容は大体変わっておりません、中でも鎮魂のことばは佛教からお経、キリスト教からはお祈りで私共の深く熱い思いがこめられております。

 出発時から多くの方の御賛同と御協力を頂きましたこの会は、年々参会者が増えました。陽春四月、散り残った桜の花びらがヒラヒラと舞う中で毎年開催されますことを感謝いたしております。

 

前実行委員会代表 前島 郁子

(平成18年4月発行 十周年記念文集より)